「第4回映画のまち調布賞」の授賞式が2月26日行われ、功労賞が「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)や「男たちの大和/YAMATO」(2005年)などを手掛けた東映デジタルラボのテクニカルアドバイザー、根岸誠さん(74)に贈られた。根岸さんにこれまでの映画人生や日本映画の将来について聞いた。
――受賞おめでとうございます。根岸さんは調布市国領にある東映ラボ・テック(旧・東映化学工業)でフィルム時代から長年にわたり映画界の技術革新に貢献されてきました。受賞の感想と調布の印象について、お聞かせください。
(功労賞をもらうのは)私ではないだろうと今でも思っています。調布は田舎の頃から知っています。若い頃は二子玉川からバイクで会社まで通っていました。会社の周りは田畑がほとんどで、台風で野川が氾濫したときなどは周りが水浸しで会社へ行くのにボートが必要な状況でした。ちょうど仕事で泊まっていて帰れず、食事もないのでおむすびをボートで持ってきてもらいましたね。
――映画業界に入ったきっかけは。
高校のときに大映の映画が盛んで、劇場でよく見ていて「こういう映画を撮ってみたいな」と思った。当時は勝新太郎さんの映画が多かった。高校が化学系の学校で、就職先がほとんど石油関係のプラントとか化学系ばかりだったので何か面白くないな、と。すると学校から「調布に東映化学工業という会社がある」と言われて入りました。
――どういう仕事をされてきたのですか。
化学系出身だから現像をやらされるのかなと思ったらフィルムの色を調整するタイミングという部門に配属されました。次はフィルム上で特殊効果をつける「特技係(特殊技術係)」へ異動に。先輩の下で東映のありとあらゆる作品のフィルムに文字を焼きつけるとか、撮影したフィルムを別のフィルムと重ね合わせて画面転換の時にほかのシーンに切り替わるオーバーラップの作業といった業務をひたすら7、8年やっていました。次は合成をやってみたらということで、別々に撮影したシーンをフィルム上で合成する作業も行うようになりました。当時は東映のヤクザ・シリーズ映画が多く、「仁義なき戦い」(1973年)とか。窓の外に違う背景を入れるなど、大抵1作品に何カ所かこういった合成カットがあるんです。1980年代ぐらいになると撮影現場に行って合成しやすい撮影方法をお願いして合成の精度を上げていました。その前までは「撮ってきたものでやればいいんだ」と言われていた。フィルム合成は15年ぐらいやって、その後はデジタルに切り替わっていきましたね。
――デジタルに接したときの印象は。
「フィルム合成の精度はデジタル合成にはかなわないな」と思いました。東映作品として主体的にデジタルをやらせてもらったのは「藏」(95年)が最初。フィルムからデジタルデータを取り込む環境が会社に用意できていたので「だったらやってみよう」と。
――元テクニカルコーディネーターで現在はテクニカルアドバイザーとして後進の指導に当たられていますが、テクニカルコーディネーターについて分かりやすく説明してください。
撮影から仕上げまでの最も合理的な仕上げ方法を提案する仕事といったところですかね。撮影機材や撮影方法を決めるのは監督や撮影監督の仕事で、その機材を使って最も効率良くより良い作品を仕上げていくための工程を提案します。映画製作は合理的にやるべきですが、クオリティーを無視した合理性はだめ。テクニカルコーディネーターの中には技術面を優先して作業フローを考える人と、ビジネスとしての効率性を優先して考える人がいますが、私はどちらかというと後者ですね。関わった映画がビジネスとして成功しないのが一番つらいですね。
――日本映画の現状と将来についてどう感じていますか。
日本国内の市場に向けてしか作っていない傾向の作品が多いですね。これだと、もう限界です。もっとグローバルに展開できる映画作りが日本でできないと。ただ若い作り手は育ってきている。日本国内で作った映画がアマゾンやネットフリックスといった配信で徐々に海外で評価されるようになってきているので、こうした作品を日本国内でも皆さんに見てもらう機会を増やすことが大事だと思います。
――ありがとうございました。