特集

シリーズ【調布の老舗探訪】Vol.7
『六畳一間から始まった印刷業』
-内田平和堂・会長内田武さん、社長内田眞一さん

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調布市のつつじヶ丘に拠点を置く印刷会社、内田平和堂の前身は、大正初期から営む新聞販売店だった。内田平和堂の社長、内田眞一さんの祖父で創業者の内田忠作さんは当時、浅草の印刷所で数年間、でっち奉公をしていた。

写真:会長の内田武さんと社長の眞一さん写真:会長の内田武さんと社長の眞一さん

1923(大正12)年の関東大震災の後、新聞販売に加えて「何か新しい事業を」と検討した際、印刷所での経験を生かして印刷業を開始したのが内田平和堂(当時は「内田商店」)の始まりだった。

写真:創業者内田忠作さんの作業風景(提供=内田平和堂)写真:創業者内田忠作さんの作業風景(提供=内田平和堂)

主に取り扱っていたのは、商店が商品を入れるのに使う紙袋。手動式印刷機を1台導入し、六畳一間の小さな部屋で、店の屋号を木版で紙袋に印刷していたという。近所の人たちから「袋屋」と呼ばれていたことから、フクロウが矢に止まっているデザインを会社のロゴマークに決めた。そのロゴマークは現在も、店のホームページなどで使われている。

写真:テキンと呼ばれる手動式印刷機写真:テキンと呼ばれる手動式印刷機

終戦後の1949(昭和24)年、「戦争のない平和な世の中に」と願いを込め、社名を内田商店から内田平和堂に改称。その頃から、印刷技術の進化と高度経済成長に後押しされ、内田平和堂も目覚ましい発展を遂げていく。

紙袋以外に、砂糖箱や祝儀袋などの印刷も始めた。「昭和30年に日産ダットサンを中古で購入した。その車に印刷物を積んで、父と2人で毎日行先を変えながら稲城や鶴川など、あちこちへ行商した」と創業者の長男で現会長の内田武さんは当時を振り返る。

写真:後方右側に写っているのが日産ダッドサン(提供=内田平和堂)写真:後方右側に写っているのが日産ダッドサン(提供=内田平和堂)

転機となったのは、富士食品工業との出合いだった。深大寺に給食会社ができたと聞いて、忠作さん親子は営業に向かい、名刺の印刷を受注することに。「この会社が後にシダックスという大きな会社になり、当社も伝票やパート募集のチラシなどの印刷で、忙しさが数倍になった」と武さん。

写真:鉛の活字を一字一字はめ込んで印刷する(提供=内田平和堂)写真:鉛の活字を一字一字はめ込んで印刷する(提供=内田平和堂)

現在のようなデジタル印刷技術のない活版印刷の時代、印刷の工程は非常に複雑だった。それが、活字からタイプへ、そしてワープロ、パソコンへと版下作りの環境も変化し、高度経済成長期には、内田平和堂では大量・高速の印刷が可能になっていた。バブル期の頃には、武さんの弟2人とその家族に息子の眞一さん、和之さんも加わり、家族経営でビジネスを拡大していった。

眞一さんは、寝る間もないような忙しい日々をこう振り返る。「父との仕事で今でも覚えているのが、新聞の折り込みチラシの求人広告のこと。夜7時くらいにデータが届き、和之が印刷版を出力、僕が夜中に印刷し、最短で新聞に折り込むために朝早くに父が断裁して、朝4時に運送会社のトラックに引き渡すというようなことを何年かやっていた。うちにデジタル印刷の設備があったからできたことだった」

写真:本社社屋を建設する際に描かれた絵写真:本社社屋を建設する際に描かれた絵

得意先の要望に応えてきたことが、内田平和堂の印刷技術の進化につながった。大量生産の時代は終わり、現在は印刷業界でも小ロット・多品種が求められているという。内田平和堂では、最新鋭の機器を使う一方、かつてのテキン印刷機や活版印刷機をよみがえらせ、創業当時の技術と最新の技術を合わせることで、新しい価値の創造を目指している。

その一つにSDGsへの取り組みがある。印刷の余り紙で作られるノートやフェアトレードで作られたエコバッグをオンラインや店頭で販売している。今後は自社開発のものづくりにさらに力を入れ、世の中に発信していきたいと今後の展望に期待をのぞかせる。

写真:ノートやバッグなども販売している写真:ノートやバッグなども販売している

【株式会社内田平和堂】
住所:〒182-0005 東京都調布市東つつじケ丘1-17-2
電話番号:03-3300-7301
営業時間:9時~18時
定休日:第1土曜、最終土曜、日曜、祝日

株式会社内田平和堂ホームページ

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